LEGO野生児(インドア系)の三無主義。

LEGOやナノブロックでなんか作る〜。

系統樹


博物館といえばコレ。


系統樹
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ヘッケルの古典的な系統樹みたいな、レトロなのを作りたかったのだが…
枝パーツを使用したため、枝分かれが細かい割に常に1系統だけ残してすぐに絶滅しまくってるやん…
何故ヘッケルを目指したかというと、押井守の『攻殻機動隊』のラストバトル、水没した博物館のシーンが恰好良いから。

 

イマイチ納得できなかったので、もひとつ別バージョンも製作↓

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脊椎動物の進化。

魚を超ざっくり1系統にまとめる等、強引な部分もあるが、「肉鰭類」のパーツとかないんだもん…。


上部に並んだ動物パーツは、左から段々とより「高等」なものを目指して進化した、という目的論めいた旧い進化観を反映した、いわゆる「梯子図」っぽい点が我ながら気に喰わない。

梯子は左から4~6段階かけて猿人からヒトに直線的に進化する図が有名だが、スティーヴン・ジェイ・グールドはこの「ヒトという完成型を目指して真っ直ぐに進化する」的なニュアンスを批判した。

『進化』とはその時々の環境に合わせて盲目的に起きる「変化」で、進歩的な意味は特になく、ヒトは完成品でも進化のゴールでもない。
あらゆる生物は共通祖先と分岐してから同じだけの時間をそれぞれの環境に合わせて過ごし、それぞれに合ったやり方で生き残ってきたのであり、「下等」も「高等」もない(私もつい利便のために、より複雑だったり新しい形質を持つ生物を指して「高等」とか「より進化した」といった用語をポロリと使うことはあるにせよ)。


この直線的な考え方は進化論以前からあった。
かつては『存在の大いなる連鎖』という階層の連続があり、単純な生物の上位に複雑な生物が配置され、その上にヒト、さらにその上に天使…という神へと向かう切れ目のない梯子があるのだ、とされていたのだ。

ダーウィン以前、ラマルク流の進化論では、あらゆる生物は単純なものとして発生し、時間の経過とともに必然的により複雑なものに進化していく。
そして単純な生命は常に生み出され、それぞれ同じ様な進化のルートを辿っていく。
多様な生物がいるのは生み出されたタイミングが違う生命がそれぞれに梯子を昇るため、今いる段がそれぞれ異なるためだ、と説明された。

つまり現在の単純な生物は比較的最近になってから出現し、梯子を上り始めたところなので単純なのであり、複雑な生物は遥か昔に出現して以来、真っすぐ高みを目指して梯子を昇り続けた結果、今の位置にいるのだ。
化石種のカエルは現在ではネズミに進化しており、現在のカエルは当時はまだミミズだった。
だから現在のカエルと化石のカエルとは関係がない。
その二つはバラバラの時期に出現した単純な生命が必然的に進化の階梯を昇る際に通過する、特定の「段」なのだ。
今の目で見ると怖ろしく奇妙なアイデアだが、当時の考え方を後知恵でバカにするべきではない。
そしてその一方で、それらの奇妙な考え方の残滓は「進歩主義」や「目的論」、「直線的進化」といった様々な形で我々の現在の知識を蝕む。


…そんな訳で、本当は哺乳類を両生類と爬虫類の間に入れたかったのだが、そうすると系統樹全体が「枝が右に新たな分岐を生み、その枝もさらに右に新たな分岐を…」の繰り返しだけで構成された、整然としてつまらないものになってしまうため、デザインを優先して敢えてこうした。
まぁこれも間違っている訳ではないし、整然としすぎた系統樹もまた別の誤解を招きかねない。
系統樹とは込み入った藪の様なもので、常に整然としている訳ではないのだ。

…とかいろいろいらんコトを考えていると、系統樹とは我々の様々な知識と偏見の集大成なのだということを実感する。

 

なお、上部の「動物」という具象的なパーツは、無い方がソリッドで良い感じというか、より純化された「概念の図像化」という感覚に浸れるので、上から4ポッチ分はいつでも外せる様に作ってある。

 

右下は最近よく見る無根の系統樹